TheFanの世界観って

 

※参戦後、当時(2023.3月上旬)の文章を読み直し、加筆、修正しましたが、決して読みやすくはない駄文、乱文です。優しさ成分多めでお読みください、!

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あの人のことが、「純粋に好き」「なんか気になる存在」が、いつしか形を変え「こうして欲しい」「これはして欲しくない」「こうするのが普通でしょ」と、好意が歪み、針のように尖った感情を、誤った方法で、ぶつけてしまう。
ざふぁんは、「推し(アーティスト、俳優、アイドルなど、さまざまな対象)と、ファンの関係性と距離感」を誤り、一線を超えた行動をとったファン(誘拐犯)の、誰もが持っている可能性の物語なのかもしれないと解釈した。

 


目覚めたら、知らない会場にいた4人。前後の過程は省かれているけれど、誘拐犯の行動を想像してみると、結構ゾッとした。

まず、ファンだと名乗るこの誘拐犯は、何らかの方法で、4人の家を突き止めている。そして、寝静まった隙(かは不明)に侵入し、場所を移すために、さらに深〜く眠らせている。そして、手錠をかけ椅子に座らせ、会場という箱に監禁した。(誘拐犯は、モニター越しに対面)
誘拐犯は、一見、曲に詳しく「あの入り方が良い!!」「このコードが!!」など、発言から、せかおわさんに対して、かなり深めの愛情を持つファンであることも伺える。曲の披露後には、うっうっと涙も流す。(完全にアウトな存在なのですが、共感する部分があって、憎めない絶妙なキャラなのが、大天才!)早口で「本当のファンは箱推し」と伝える所には、思わず(「わかるッッ!!」)と首が取れそうなくらい頷きたくなったし、「その通りだよ!!」と、大拍手を送りたくなった。親近感も湧き、誘拐犯のキャラに翻弄された。


(実際に、本当にファンなの?と疑いたくなる言葉の数々が、snsに投稿されているのを見かけたこともある。この詳しさはファンだなーと思いながらも、「本当にファンだったらこんなことはしない」(深瀬さんの台詞にある)
この誘拐犯の性格は、まだファンになって間もないファンも含まれていて、多くのファンの性格(アンチも含む)を混ぜ合わせて完成しているのかもしれないと思った。だから、誘拐犯は、アンチじゃないアンチみたいなキャラ。
箱や推しという言葉を、抵抗なく取り入れているところは、変化に柔軟で、その姿勢は、新規さんにも寛容そうで、古参ファンのよう。
そして、この脚本を担当したのはさおりさんで、もちろん、メンバーも目を通しているはずなので、せかおわさんは「推し」「箱推し」と呼ぶこと、呼ばれることに、強い抵抗はなくて、受け入れていますよーっていうことも、同時に伝わってきた。(アイドルじゃないから、推しという呼び方はどうなんだろうという声もあり、争いが起きたり起きなかったりしている事も、耳に入っているのかも。
過去に、深瀬さんは「本を読んでいても、うちわを振っていても、耳栓をしていても、それがその人の楽しみ方なら良いと思っています!」と発言していて、やっと(ライブを通して?)伝えられるような環境になったのかもしれない。
「4人でせかいのおわり、誰か1人でも欠けたらせかいのおわりじゃない」それを「箱推し」という、馴染みやすい単語で、まろやかに伝えられていて、新しい良い部分を吸収して生かす柔軟さに唸った...。
そして同時に、ファン同士でも、異なる意見を尊重し、歩み寄ってほしいと伝えているようにも思えて、ライブ後、就寝前の暗闇のなかで1人、ハッとした。好きという思いは、同じ方向を向いているのに、意見が異なるから争いあうのは、やるせない。また、「気になってはいるけれど、初めてライブに行こうか迷ってる...」というまだ観ぬ未来のファンに向けて、気軽にライブにおいで〜!という気持ちもあるのかもと感じました)

 


どうして、こんなことをする(言う)んだろう...という相手(ここでは誘拐犯)にも「わかる〜そこわたしも好き〜」と、行為や発言の全てを否定せず、そこはわかるよ!!とちゃんと伝えている。普段から、ファン1人1人の、せかおわさんのここが好き!!も、これはちょっと〜も、どちらとも言い難い意見も、受け止めて下さっている真摯な姿勢に、懐の深さを見る。せかおわさんには、感服するばかり。好き。

 


ファンである誘拐犯の熱がこもった言葉の数々から、せかおわさんを曲をライブを、心の底から好きでいることは、間違いない。しかし、思いが強すぎるあまり、思い通りに動かしたい気持ちが芽生え、暴走した。

(「○○年の○○の入り方が良かったから、それをやるんだ!!」「ここで水を飲む」など、演奏や台詞のタイミングまで、細かく指示を出している。見たいもの、してみたいこと、誘拐犯の私情と欲望が詰め込まれていた。
「逆襲のピエロ」に至っては、ライブなのにカラオケ音源である。これは、もう親切と言えるのかわからない。
指示を聞かなければ、すかさず電流を流す。それは、体には残らない痛みでも、ちゃんと痛くて、まるで言葉みたいだった。
やりたくなくても、「命の危険」をチラつかせてくるため、従わざるを得ない。誘拐犯の素顔は、恐らく見えていないだろうし、姿もわからない匿名さが、snsに似ていた。
らぶさんだけに電流が流れていたのは、攻撃をしても何も言わなそうで、反撃はしてこない、何を言っても良さそうな、誰かのイメージの人選。痛がっているのに、面白可笑しく笑ってしまうような。
演奏を強要していて、おかしなことをしているのに、観客のわたしたちは、いつのまにか、誘拐犯と同じ心理状態になっていたように思う。平気で拍手をして、歓声をあげている。この一体感には、残酷さがあった。ユーモアたっぷりで、スッと心に入ってくる脚本に、ファンへの愛情を感じた。FC限定だから出来る、やろうと思ったようなそんなライブでした)

 


拘束が解けて、体は自由になった。でも、心(表現の幅)の自由は制限されているように見えた。
(曲と曲の合間の表情は暗く、とても居心地が悪そうで、不満気にも見えたのは、あえてそんな表情をしているのかもと思った。)抑圧され、窮屈さを感じる状況のなかで、心の底から感情が揺さぶられる伸び伸びとした表現は出来るのか...。

あの頃が良かったという声も「○○年の(略)」の台詞からしっかり受け入れているのを感じる。

振り返るあまり、歩みを意図せず止めてしまうこともある。過去のイメージに拘束されると、動けなくなってしまう。

新しい挑戦をせずに、イメージじゃない、キャラじゃないからと、諦めることが続くと、自主性も自信も失う。新しい表現が何も生まれて来なくなってしまったら、好きなせかおわさんの姿は、もう見られなくなってしまうかもしれない。

この人はこういうことをしなさそうなキャラだよねとか、誰かからのイメージにも、囚われすぎないで「一歩踏み出すと案外楽しいよ」っていうメッセージが、なかじんの演技挑戦エピから伝わってきた。キラキラした目のなかじんのお話は、どの公演でも話されているようなので、重要エピだと思った。殻を破り、新しい自分に出会えたなかじんだから、最初に手錠が外れたのかも)

 

 

ライブが進む中で、誘拐犯の演出の不自然さに、違和感を覚えるようになった。
曲と曲の間にでかい声で突然差し込まれる「質問タイム」の唐突さには「今?!?!!?!!!」と、心の声が漏れ出していた。

 

この中断の演出には、理由があってのことだと思った。ライブの流れを無視したようなタイミングでの質問タイム。声出しが解禁され、待ち望んだ会場が1つになるスタパレコール。1人1人の感情がマックスに高まる中での、中断。質問タイムに続きここでも。「え?」と思いながらも、中断した理由を聞いてみると、「せ〜のって言ってみたかったから」とのこと。最高潮に達した瞬間に、スタパレコールは中断させられて、正直、イラっとした。今良いところだったのに、なに??とも思った。なにその理由〜!とも思った。


今まで、誘拐犯の全ての要求は、せかおわさんに向けられていて、その結果、誘拐犯に感情移入し、せかおわさんに対して、いいぞ!いいぞ!もっと!もっと!そう思うようになってしまっていた。ついさっきまで、誘拐犯に対して、いいぞ!と思っていたのに、想像していなかったタイミングでの中断に、手のひらを返すこの変化は、思い通りに相手を動かしたいと思う誘拐犯そのものだと気づいた。アンチではないアンチ(完全な憎しみじゃなく、好きという気持ちがあるため)に変わるファン心理の恐ろしさを疑似体験した。ゾッとした。「推し」「ファン同士」「身近な人」願望や要求を、誰かに押し付けすぎないのは、とても大切なことで、忘れがちなことでもある。

 


そして、最後のOMC-1の言葉

「どれだけ月日が経っても、忘れてはいけないことを彼らは思い出せただろうか」

 

新しい事に挑戦し続けること、ファンとの距離感の大切さ。デビューしてまもない頃からのファンのことも、忘れてはいない。大切に思っていてくれていること。お互いの思いがすれ違って、誤解から、今回のざふぁんは生まれたと考えることも出来るが、本当のことはわからない。それでも、考え続けていきたい。

"彼ら"は、せかおわさんのことも指しているのかもしれない。でも、OMC-1は、観客側を向いて語りかけていた。わたしにも、あなたにも、あの人のなかにも、きっかけはある。

共犯という言葉は、とても甘美な響きだった。

 

 

(2023.03.06)